一人が好きだった。人に合わせて行動をしたり、一人ならする必要もない気を遣わなきゃいけなかったり、そういった類のものが苦手だった。
馴染みの飲み屋でたまたま出会いその場限りの他愛もない会話をする。そんな顔見知り程度の関係で十分だった。そうやって出会った男とならいつでも終わらせることのできる適当な付き合いでいいだろうと思っていたのに、あの人は年が明けた睦月の夜でもそうさせてはくれなかった。

向かいの長屋の番犬が吠えたのが聞こえて口元に運んだ猪口を持つ手を止める。丑の刻を少し過ぎた頃だった。今日はいつもより少し遅い。猪口をちゃぶ台に置き土間に向かうと案の定引戸がガタガタと音を立てて揺れていた。建て付けが悪くなるからやめてほしいと言ったのに。開錠すると闇夜の中で半纏を纏った銀髪の男が身体を震わせながら立っていた。皮膚を貫くような冷気に混じって酒の匂いが鼻腔をくすぐる。


ちゃ〜ん。なんで鍵閉めてんだよ銀さん凍死するところだったよ」
「この前開けてたら物騒だからちゃんと戸締りしろって言ったじゃん」


そう反論すると銀時は呂律の回りきらない口で「そうだっけか〜?」と言いながらブーツを脱ぎ捨て居間に上がっていく。あの時もこんな調子で言われたんだっけ。覚えてないのも当然か。それでも酔っ払いの戯言同然の言いつけを律儀に守るほど私は健気だったらしい。

四畳一間の畳に寝そべる銀時の前にいちご牛乳を注いだグラスを置く。二人で晩酌する日もあるが、これだけできあがってる日は寒くてもいちご牛乳が飲みたくなるらしい。常備しておかなきゃいけないくらいにほぼ毎日銀時はやってくる。切らす時が一度もないどころか忘れることすらできないのは、深夜だろうが早朝だろうが、この人の来訪を待ち望んでいる証拠だった。


「なんで最近来ねーんだよ」


好物のいちご牛乳ではなくその横の猪口を睨みながら銀時が恨めしそうに呟く。酔っているせいで普段から生力を感じさせない目が瞼の重力に耐えきれていないために分かりにくいが、僅かに眉間に皺が寄っているので恐らく睨んでいるのだろう。


「なんか、行きづらくて」


あれだけほぼ毎日馴染みの飲み屋に通っていた私だが、銀時と男女の仲になってからはすっかり足が遠くなっている。初めて出会った日、あちこち飲み歩くらしい彼は久しぶりに足を運んだそうで私以外の常連とも顔見知りらしかった。顔を合わせる度、言葉を交わす回数も増えていった。無口でもお喋りでもない二人の会話は本当にとりとめのないものばかりだったけれど、少なからず心地よさを感じていた。
不思議な人だと思う。酔った姿はだらしないし普段も適当でいい加減な性格が目立つけれど、ふらっと現れては近づき過ぎず、踏み込み過ぎずに側にいて、いつの間にか離れていく。一つの居場所に定まらない流れる雲のような姿が好きだった。私もそうでありたいと思っていたのに、恋仲となった今ではそれが不安で仕方がないのだ。ふらっと私の前に現れた彼だから去るときも私が知らない間に消えてしまうのではないかと、彼がこの部屋にやってくるまで怯えて夜を過ごしている。

私の曖昧な返答に銀時はふぅんと鼻を鳴らしただけだった。
四畳一間の一室は大人二人が並ぶには窮屈だ。加えてこの年季の入った長屋はきちんと閉め切ったつもりでもどこからか冷気が侵入してくる気配がする。部屋の隅に畳んでいた毛布を手に取り自分の膝に掛ける。毛布の左半分が余っているのは銀時のために残したスペースだ。目だけで促そうとすれば、寝そべったままの銀時と目が合った。眠たそうな目で見つめられただけなのに、後ろめたさを感じるのは曖昧な返答で誤魔化した自覚があるからだ。





いつからだろう。隣で名前を呼ばれることに安らぎを覚えたのは。いつからだろう。名前を呼ばれるだけでは拭えない不安と寂しさがこの胸に巣食うようになったのは。
銀時が身体をゆっくりと起こし私と向き合う形になる。私が瞬きをしたのを合図とするように、冷えた唇が私のそれに押し当てられた。そのまま銀時の背中に手を回し半纏をぎゅっと握る。まるで、このまま繋ぎ止めようとするかのように。

出会った頃のように、いつもの場所でくだらない話ができたらどんなに楽だろう。今となってはこの寂れた四畳一間で二人きりにならないと満たされない。とても窮屈だと思う。一人の方がよっぽど楽だった。それでも、唇を合わせ、抱き合い、冷え切っていたお互いの体温が確かな熱を持って一つになるとき彼が私の元にあると実感できるのだ。
問いかけられた言葉に満足に答えることもできずこんな卑怯なやり方でしか好意を表せない私は、今夜も縋って、掴もうと足掻いて、窒息しそうな程に、このまま溺れていくのだろう。

2021.5.9
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