後ろの席の阿部君は、ちょっとよく分からない人だ。そもそも普段会話をする仲ではないので、阿部君のことを知らないのは当たり前なんだけど、それを差し引いても、正直、とっつきにくい。
休み時間は同じ野球部の水谷君か花井君と話しているか、机で突っ伏して寝ているかのどちらかだ。社会の先生はいつも授業開始の5分前には教室にやってきてプリントを配る人で、そのときに阿部君が机で突っ伏しているととても困る。阿部君の後ろは誰もいないので私が阿部君にプリントを回せばそれでいいのだけれど、阿部君の肘に当たらないように、かつ、机から落ちないギリギリのスペースを狙って置かなければならない。しかし、細心の注意を払っていても、阿部君が顔を上げたときにプリントが落ちてしまったときがあった。落ちたところが悪かったのか、阿部君が苦労して拾おうとしているのを背中で察しながら申し訳ない気分になった。

その次の社会の前の休み時間もやっぱり阿部君は寝ていて、前みたいなことにならないように阿部君が起きてから渡そうと決めた。前の席の子が私にプリントを後ろに回すついでに話し掛けてきても、背中の全神経は阿部君に集中させる。
あ、起きた。気配を感じた瞬間、プリントを手に取って振り返る。まるで今プリントが回ってきたかのように装って。今起きたところだからわからないだろう。そう思っていたのに、阿部君は無表情で教科書の背を持ってバサバサと振っていて、想定外の様子に身体を反転させたところで硬直してしまう。阿部君は私の手のプリントに気づくと、教科書を振る手を止めた。


「それプリント?」
「あ、うん」
「前みてーにどこか落としたのかと思って探したわ」
「ごめん、私が回すの忘れてた」


手渡しでプリントを渡す。計画通りとはいかなかったけど、まあよしとしようと一息つきながら前を向こうとした。そのとき、あのさ、と阿部君の低い声が私を引き止めて、特に何の感情も込もってない声音で淡々と言い放った。


「別にてきとーに置いといてくれりゃいいから」


「適当って言われても、阿部君突っ伏して寝てるからできないよ」と言えたらどんなに楽だっただろう。でも、言えなかった。だって阿部君って、いつも無表情だし、話し方ぶっきらぼうだし、なんか怖いし。あの日だって、もうちょっと言い方ってものがあるんじゃないだろうか。なんだか怒られた気分になって「ごめん」とか言えなかった。

だから私は、正直に言って阿部君がちょっと苦手だ。必要最低限の関わりでいられるようにしてるのに、後ろを振り向くことさえ緊張するのに、なんで、今、私は阿部君と机を向かい合わせで英語を解いてるんだろう。いつもはやらないペアワークを今日に限って持ち出した先生をちょっとだけ恨む。


、どこまでできた?」
「へ!?えっと、今、問5」
「マジか、はえーな。あのさ、ここどう解いた?」
「あ、えっと、ここの関係代名詞はこの文にかかってるから」
「・・・あー、わかった。サンキュ」
「うん」
って英語得意?」
「まあ、できる方かも。阿部君は?」
「オレは数学の方が楽だなァ」


阿部君はため息混じりにそう言って答えた。いつもの仏頂面が一瞬柔らかくなったように見えて、私も無意識の内に緊張で強張っていた身体がちょっとだけ解れたのを感じていた。
私、阿部君と普通に会話してるんだ。やっぱりちょっとぶっきらぼうで、淡々としているけれど、ちゃんと言葉のキャッチボールができたことに内心驚いてしまう。
阿部君って、案外喋ってみると普通なのかな。たったこれだけの会話で認識を改める程度の浅はかな印象を抱いていたことが少し申し訳なくなる。


「シャーペンの持ち方キレイだな」


さて、私も続きを解かなければとシャーペンを持ち直したときだった。阿部君が唐突に、そしてやっぱり淡々と呟いた。何を言っているのかは分かったけど、その言葉の意味が瞬時に飲み込めず「え?」と気合い虚しく手を止めるはめになった。


「持ち方。そーゆーのちゃんとできるって、すげーよな」


「オレも親に何度もすげー直されたな」と呆然とする私を全く気にせず阿部君は自分のシャーペンの持ち方を確認すると、何事もなかったかのようにプリントに向き直る。
今の、褒められたんだろうか。あまりにも淡々と、ただ思ったことを口にしたような言い方だったのでどう受け取っていいのかよく分からない。でも、いつもぶっきらぼうな阿部君が、いつものようにただ淡々と、私のシャーペンの持ち方をキレイだなと言ってくれた。これは、悪くないことなんじゃないだろうか。

やっぱり阿部君は、よく分からない。そして私は自分で思っていた以上に、とても単純だ。阿部君のことを知らなかったばかりか、自分のことさえ知らなかったなんてなんだか可笑しくなった。「何笑ってんだよ」と阿部くんが少しだけ眉根を寄せて尋ねてくる。今までだったら責められたような気持ちになるばかりで、尋ねられたと捉えることなんできなかっただろう。いや、もしかしたらただ思ったことを口にも顔にも出しただけなのかもしれない。それでも、私が笑って「なんでもないよ」と答えられるようになったのだから、やっぱりどっちでもいいや。



2018.1.21
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