※夏の大会後の話※


母親の運転する車で病院から帰り、まだ慣れない松葉杖と格闘しながらなんとか車内から出て一息吐く。医者の話だと、切れた靭帯が元の状態になるには3〜4ヶ月かかるらしいが、こんなに不便な状況が何ヶ月も続いてたまるか。合宿には遅れてしまうが腐っていても仕方がない。家にいる間やれることをやってやろうと自分を奮い立たせるように顔を上げると、ふと後方から視線を感じた。
振り向くと自転車に跨ったブレザー姿の女子が車道からこちらをじっと見つめていた。なんとなく全く見覚えがないわけではない気がするが、あくまでもそんな気がするだけで誰なのかまでは思い当たる節がなかった。しかし、それだけで片付けてしまうには引っかかるものがあり、あやふやな記憶を手繰り寄せようと目を凝らすオレの横を母親が足早に通り過ぎて行くと、女子生徒ははっとしてぺこりと母親に向かって頭を下げた。


ちゃん?久しぶりー!」
「はい、お久しぶりです」
「なんか雰囲気変わったかしら?あ、髪伸びたせいかな?」
「えへへ、そうですかー?」


松葉杖で突っ立ってるオレを蚊帳の外に置いて繰り広げられる妙にテンションの高い会話に唖然としながら、オレは「ああ、か」とようやく女子生徒の正体に納得した。そりゃ道理で見覚えがあるわけだが、アイツってあんなんだったか?と愛想の良さそうな笑みを浮かべて母親と話すと、オレの頼りない記憶の中のの姿を擦り合わせる。中学を卒業後、別々の高校に進学して一度も会っていなかったので最後の記憶は中学の卒業式の姿だ。
見慣れない高校の制服姿だからか?母親が言うように髪が伸びたからか?それだけと言ってしまえばそれだけの変化なはずなのに、あのブレザーの女子生徒をだと認識するには妙な引っ掛かりがあって、でも間違いなくあの声やあの笑い方は中学までは毎日見ていた自身のもので。記憶の中のと、目の前のが一致しそうで一致せず、なんだか小骨が喉元に刺さったような感覚がする。


「隆也、怪我したんですか?」


が母親の背後にいるオレを覗くように首を傾げた。髪がさらりと肩から流れて、くるくると丸まった毛先が揺れた。白い肌に浮かぶように目立つ赤い唇と明るい目元がオレに向けられる。
オレではなく母親に問い掛けていることはすぐに分かったが、知っているはずの顔をした見知らぬ女がオレの怪我を心配するという奇妙な感覚がして、どき、と胸が嫌な音を立てた。


「それがね、さっき試合で捻挫しちゃったのよ」
「え!?大丈夫なんですか!?」
「次の大会もあるから、それまでには治すって本人は意気込んでるけど・・・ねえ?」
「・・・おう」
「そうなんですか・・・・。お大事にね」
「・・・おう」


また嫌な音が鳴る。その言葉と心配そうな眼差しだけは、オレの知るだった。頭ではだと認めているのに、この妙な胸のざわつきは一体なんなんだ。それは次第に嫌気に変わり、何をやってんだと自分自身を叱咤する。久しぶりに会えばそりゃ多少は変わってるように見えるだろ。しばらく見なかっただけのただの幼馴染にこんなにも狼狽える必要なんかねェだろうが。
「じゃあ、失礼します」と母親に頭を下げてからオレにも「またね」と手を振ってペダルを踏むを軽く手を上げて見送った。ほらな、もう平気だ。なんだか変な汗を掻いた。試合後だし、シャワーを浴びたいがこの足じゃ不便なことは分かりきっているため億劫になる。
玄関に向かう背中に蝉の声が突き刺さる。夏なのだから蝉が鳴くのは当たり前のことなのに、なぜかこのときだけはこんなに喧しいものなのかとうんざりした。


+++


が家にやってきたのはその翌日のことだった。武蔵野が勝ち進んでいくことに形容し難い複雑な気持ちを持て余して畳の上で大の字になっていたときにインターホンが鳴った。母親がスリッパを鳴らして玄関へ向かうのを反転した視界の隅で捉える。「あらちゃん、どうしたの?」という母親の声に、マジかよ、と思わず顔を顰めた。武蔵野の準決勝進出に感じたものとは別だが、決して好ましくはない感情が湧き上がる。


「ウチのおじいちゃんとこで採れた野菜をおすそ分けって母が」
「嬉しいわ〜。ちょうどお昼にしようと思ってたの。暑い中ありがとうね。お茶出すから上がって」


母親の弾む声を居間で聞きながら、が家の中にやってくることに僅かな緊張と焦りが生じた。恐らくここに通すのだろう。昨日の今日でどう接すればいいのか戸惑ったのは事実だ。しかし、玄関から居間の数メートルの距離をが歩いてくるまでに払拭されるはずはなく、慌てて上半身を起こすことしかできなかった。


「お邪魔しまーす」
「・・・・・おう」


結局なんとも言い難い微妙な気分で出迎えることになったが、の格好を見て目を瞠った。
Tシャツに7部丈のジーンズというラフな格好で、自転車で来たのか風に煽られて髪が若干乱れていた。唇も、目元も、明るくない。昨日の制服姿とはまたえらく印象が違う。オレの記憶の中のと一番近い。中学んときはそういうTシャツにジャージ姿をよく見た気がする。なんだ、別に普通じゃん。変に身構えていたのが拍子抜けだ。


「お昼まだだったら食べていかない?お母さん準備しちゃってるかな」
「あ、大丈夫です。連絡しますね」
「お野菜いただいたお礼言いたいし、私がするわ」


二人分の麦茶を運んできた母親がに座るよう促すと、はオレの向かいに腰を降ろした。机上にはさっきまで見ていた選手名簿やノートが広がっていたので適当にどかしておく。母親の背中が見えなくなるのを確認してがぽつりと漏らした。


「長くなりそうかな」
「多分な。つーかなんか悪ィな、無理に上げちまって」
「ううん。隆也が怪我して動けないんだってって言ったら、お母さんがじゃあ遊びに行ってらっしゃいって野菜持たされた。もうそんな歳じゃないのにねえ」
「そーだな」


付けっ放しのテレビからは試合が終わりベンチを立ち去る選手をバックに次の試合予定を告げるアナウンサーの声が聞こえる。画面を見つめるの黒髪が扇風機から送られる風でふわりと舞った。


「髪、暑くねえ?」
「うーん、まあ、暑いかな」
「お前、ずっと髪短かったよな」
「うん」
「じゃあなんで」
「伸ばしてみたかったの」


なんで、とまた口にしかけてやめた。そう言って髪を耳にかける姿がこれ以上の追及を拒んでいるように見えたからだ。いや、というより、オレ自身が口を開くのを躊躇われた。今の一瞬の動作が、昨日オレを見つめていた見知らぬ女の記憶を呼び起こしたからだ。なんで、今になって。は分かっているんだろうか。お前が急に知らない誰かに見えて、オレはその度に動揺させられるって。もし自覚があるとしたら、一体、なんの悪ふざけなんだ。


「隆也はずっと野球やってるんだね」
「は?当たり前だろ」
「そっか」


昨日と同じく、声はいつものだった。ただ、ほんの少し、物寂しそうな短い相打ちだったが。しかし変だ。こんな当たり前なことを聞くことも、それっきり黙ってしまうことも。笑ってこそいるものの、こんな物憂げな表情を浮かべる奴だっただろうか。わからない。なぜだか無性に苛立ちがこみ上げる。扇風機が首を振る音だけが室内に響く。ちゃんと風は届いているはずなのに、黙っていると全身が熱に浮かされてしまいそうで、俺は耐えきれずに口を開こうとした。


「そうだ。数学教えてよ。夏休みの課題の」


しかし、がはっと思い出したように声を上げたせいで呆気に取られ、怒り任せに出かけた言葉は消えてしまった。
カラン、と目の前でグラスの中の氷が音を立てた。母親が持ってきた麦茶だ。俺はがトートバッグから問題集らしき本やペンケースを取り出している間に初めてそれを口にした。冷えた麦茶が身体を巡っていくのを感じながら小さく息を吐くと、苛立ちが少し和らいだ。


「課題って、お前のガッコの方が偏差値高いだろ」
「でも数学は隆也の方が得意だったし」


そう言いつつ開いた問題集をオレの目の前に差し出してここの二次関数がね、とオレの言葉など聞く耳を持たず説明し始める。先程までの妙にしおらしい態度を忘れてしまいそうな程の奔放さに呆気に取られたが、オレの足を考慮してか、身体を動かさずとも目線を少し下げるだけで済んだので仕方なしにテキストを覗く。
問題文に目を通しながら耳はの声を捉えているはずなのに、やけに外から聞こえる蝉の声が脳内に響いて暑さとともにじんわりと一年前の記憶を連れてくる。
今日と全く同じこの室内で、切羽詰まった表情で問題集と向き合うと、その様子を見守るオレがいた。あれは夏休みが終わる三日前に数学の課題が終わらないと泣きついてきたを仕方なく招き入れ、手助けをしてやったんだっけか。あのときと似ているが、違うのは前屈みになったせいでテキストに影をつくるの髪の長さと、シャーペンを持つ手の白さだということは朧げに記憶の中で唯一鮮明に覚えていた。


「ってなるんだけど、なんでかわかる?」
「・・・・えーっと」
「暑い?今日も日差し強いもんねえ」


そう投げかけられて、話を途中から聞いていなかったことに気づいた。誤魔化すようにTシャツの襟を人差し指で軽く引っ張るとオレが暑がっていると勘違いしたらしく、扇風機の風を強まで引き上げる。の髪がさらに激しく風にさらされるのを視界の端に捉える。ずっと黙ってるオレを見つめる怪訝そうな顔つきから思わず目を逸らした。


おまえ、なんか、変だよ


あのとき口にしかけた言葉が喉にせり上がる前に飲み下す。これを突きつけてしまったら、オレが抱いた違和感以上のことを晒してしまうんじゃないかと思ったからだ。そんなことをしてももうどうにもならないことは、髪を伸ばした理由を尋ねるのを躊躇ったときからわかっていた。
全部、たまたまだ。どこか変わった気がするのも、久々にオレん家来たのも、今まで意識することのなかった二人きりの空間が窮屈に感じるのも。全てがちぐはぐで落ち着かない。全部、全部、全部、怪我で部活に出られない苛立ちと、このうだるような夏の暑さのせいだと思い込んでしまいたい。



2018.9.23
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