「詰めが甘いね、摂津くん」


毎回授業開始のチャイムとともに始まる数学の小テスト。お互い採点し合った答案用紙を俺に差し出しながら、さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「マジ?絶対満点だと思ってたんだけど」
「ここ。途中で計算ミスしてるよ」
「あー、マジか」
「私は?」
「完璧」


丸しかない答案用紙を返すと、さんはよし、と小さくガッツポーズをした。
俺からしたらいつも通り余裕でこなすだけのものに過ぎないが、彼女にとっては違うらしい。いつも答案用紙が配られるギリギリまでノートを穴があくほど見つめて勉強している。俺が満点を逃したり、自分が俺よりもいい点数を取るといつも「詰めが甘いね」と嬉しそうに笑う。
その笑みはわざわざ勉強なんかしなくてもそこそこ点が取れる俺への当てつけでもなんでもなく、ただ純粋に俺に勝ったことを喜んでいるものだから嫌な気は全くしない。よくもまあ毎回俺と張り合うもんだと感心するくらいだ。隣の席になって初めて、マジでたまたまミスをしてさんにこの台詞を言われて以来、俺はずっとさんに負け続けている。
なんつーか、すげー嫌味のない優等生。それが俺のさんに対するイメージ。そんな彼女は、恋も教科書通りだった。


さんて、アイツのこと好きだろ」


うっとりとした様子で前方を見つめていたさんの表情が一変する。ぎょっとしたように目をまん丸にして振り向いた。
たった今、日直が書く日誌をさんに渡しにきたサッカー部エースの背中に彼女に代わって目線をやる。


「誰にも言ってないし、バレないようにしてたのに・・・!」
「今日一日、ずっと機嫌よかったろ」
「そ、そんなこと・・・・」
「詰めが甘いな」


決定打は今だけどな。そんな顔でいつまでも見送ってたらわかるっつーの。
心の中で呟き、代わりにいつも俺が言われる台詞をそっくりそのまま返してやると、さんは顔を赤くして黙り込んでしまった。普段の仕返しのつもりだとか一切そんなつもりはなかったが少しだけ気分がいい。
毎日予習復習ばっちりしてテストに臨むさんが見せた唯一のケアレスミス。
学校も授業も全部退屈だ。でも、初めて見つけたさんのそれだけは、ちょっと面白いと思ってしまった。


「そういやさんサッカー部のマネだろ。チャンスあんじゃん」
「でも、ライバル多いし・・・・」
「まあ、エースだしな」
「摂津くんも知ってると思うけど、頭もいいんだよ!だから私も頑張るんだ。補習になると部活の時間減っちゃうし」
「ふーん。ま、頑張れよ。恋も勉強も」
「あっ、絶対馬鹿にしてる!」
「してねえって」


絵に描いたような優等生が絵に描いたような恋をしている。興味が唆られるには十分だった。今までどうやって退屈を凌ぐか考えていた毎日が少しだけ、マシになったように思えた。
恋をしているさんの姿を目で追う時間が増えた。毎日真面目に授業を受けているとばかり思っていたが、よく見ていると時々斜め前のサッカー部エースの姿を見つめていたり、俺が思っていたほどくそ真面目に授業を受けていたわけではないことを初めて知った。優等生の顔が剥がれた、ただの恋する乙女の瞬間。バレないようにしていたというのは本当らしい。すぐにハッとしたように目線を黒板に戻す。もう俺の前では無意味なのにその必死さに笑いがこみ上げる。俺の視線に気づいて、照れて怒ったような顔を見るのが可笑しくて我慢できずに俺も笑っていた。


「摂津くん、最近授業サボってないよね」
「・・・・そーか?」
「そうだよ!勉強、楽しくなった?」
「なわけねーだろ」
「でもさ、摂津くん、小テストある日はサボったことないよね」


ちょっと嬉しい。そう言って少し照れくさそうに笑うさんを見て、なんだか急にいたたまれない気持ちになった。

翌日、いつもの小テストがあった。今までサボろうとしたことは何度もあったが、実際にサボったのは随分と久しぶりだった。さんのちょっとむすっとした顔が浮かぶ度、なぜだか居心地が悪くなって教室に戻っていたが、この日は悲しそうな表情を浮かべた姿が脳裏から消えなかった。そんな顔をさせたいわけじゃなかったんだけどな。俺がさんの喜ぶ顔のために授業に出たって、さんが勉強を頑張る理由に俺がいないと分かった瞬間、ひどい虚無感に襲われた。
俺はさんがアイツを好きだって気づく前から、とっくに張り合いのない毎日の唯一の楽しみと呼べるものを手にしていたのに。
あれだけ面白がっていたさんの、恋に恋するその横顔を目にしてしまうのが苦痛になった。どんな表情を浮かべてくれたら俺は彼女と向き合えるんだろうか。
あの台詞を何度言われ続けてきただろう。赤ペンが止まるまでずっと緊張で強張った顔が解れて子供みたいな無邪気で得意げに笑う瞬間。それが、俺は、そのために、毎回ーー。
いつも何でもできてしまうように、人情の機微でさえどうとでもなると思っていたのだろうか。だとしたら大馬鹿だ。自分自身のそれですら、扱いに困惑してどうにもならないことを今まさに嫌というほど味わっているというのに。指摘されて、気づいて、傷ついて、手放して、くそだせぇ。
このことを知ったら彼女はどんな反応をするだろう。「詰めが甘いね」と、俺だけへのいつもの台詞を吐いて笑ってくれるんだろうか。


2020.1.13
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