不思議な夢を見ている。脳内に映し出された景色をこれは夢だと自覚しながら続きを待つのはまるで映画を見ているようだ。
最初に映ったのは足袋と草履を身につけた誰かの足元だった。草木を踏み締めて歩く音がやけにリアルなのと足が動く度に紺色の着物の裾と思しきものが見える以外はこの人物が誰なのかとか、どんな場所にいるのかとか、そういった情報は何一つ得られない。代わり映えのない映像を退屈に感じ始めたときだった。

さん」

 名前を呼ばれた。紛れもない私の名前だった。草履の下で鳴っていた音が止んで、足元の草木から遥か彼方まで広がる山々が織りなす緑へと景色が変わった。どうやら名前を呼ばれて顔を上げたらしい。そこでようやく今まで着物で歩いていた人物は私で、この夢は夢の中の私自身の目を通して見ている世界だと悟る。その世界の真ん中で、私の名前を呼んだ人が立っている。低くて優しい声だった。軍帽のようなものを被っていて顔だけが霧がかかったみたいにぼやけていて分からないけれど、私に向けられているはずのその眼差しは恥ずかしくなるほど慈愛に満ちたものだと想像するに容易かった。
 再度その人から名前が呼ばれたのと、体を揺すられて現実に引き戻されたのはほぼ同じだった。

さん、大丈夫?具合悪い?」

 ゆっくりと意識が鮮明になっていく中、聞き慣れた声が上から降ってくる。何度か瞬きを繰り返して顔を上げると通路を挟んだ隣の席で授業を受けていたはずの杉元くんに心配そうな顔で見下ろされていた。辺りは授業中にしては賑やかですぐに自分が置かれた状況を察した。

「授業終わっちゃった?」
「うん。全然起きないから気分悪いのかなって心配になっちゃって。大丈夫?」
「うん、平気。起こしてくれてありがとう。心配かけてごめんね」

 よかったあ、と胸を撫で下ろす杉元くん。心配かけて申し訳ないと思うのに、本気で心配してくれたことが伝わるから彼の優しさに触れると自然と顔が綻んでしまう。

「今日はこれで終わりだっけ?」
「うん。もう帰ろうかな」
「じゃあ駅まで一緒に帰ろうよ」

 うん、と頷いて席から立つ。断る理由なんてない。杉元くんとは学科は違うけど、この共通の科目授業を通して親しくなった数少ない異性の友人だ。
 杉元くんはいつも優しい。どんな話にも、うん、うん、と優しく相槌を打って聞いてくれるし、話に夢中になって遅くなりがちな私の歩調にもさりげなく合わせてくれる。私にだけ優しいわけじゃないと思うけど、私には特別優しい。だって、そうじゃなければ今頃杉元くんの隣には私じゃなくてかわいい彼女がいるはずだ。女の子たちが杉元くんを放っておくはずがないのに、杉元くんが私以外の女の子と一緒にいたり話したりしているのをあまり見たことがないのも自惚れる理由の一つだった。

「杉元くんってさ、好きな人いないの?」
「え!?どうしたの、急に」

 駅までの帰り道に思い切って尋ねてみると杉元くんは分かりやすく動揺した。それまでは明日の授業の話だとか、最近面白かったテレビの内容だとか他愛もない話をしていたから不自然な話題転換ではあるけれど、聞かずにはいられなかった。

「だって、杉元くんってモテそうなのにそういう雰囲気ないんだもん」
「え??」

 困ったように笑っておどけてみせたけど、何か言い淀んでいる。横に開いた口がゆっくり閉じて神妙な面持ちになっていくのを隠すかのように帽子のツバを目元まで下げた杉元くんを見て、きゅ、と胸が掴まれたような痛みがした。

「忘れられない人ならいる、かな」
「どんな人か聞いてもいい?」

 そうなんだ、とだけ返事をして話を終わらせることもできたけど、どんな人なのか気になって考えても仕方ないことに永遠と時間を費やしてしまうのは分かっていた。ここまできたら落ち込むのは一緒なのだから聞いてしまえと杉元くんの様子を伺いながら尋ねる。
 一呼吸置いてうん、と頷いてくれたものの沈黙が訪れた。少し強引だったろうか。本当は話したくなくて困っているだろうか。それともどう話そうか考えているのだろうか。いくら思い巡らせても目深く被った帽子のせいでその心情は読み取れない。
 その人はさ。いつもの優しい声に少しの寂しさを乗せて杉元くんが話し始めた。

「ある程度の期間一緒にいたんだけど、俺とは違う立場の人だったんだ。結局会えなくなったんだけど、あの人の本心はどこにあったのか、今でも俺には分からなくて」

 杉元くんの言葉は瞬時に飲み込むには難しかった。喧嘩別れをしてしまったんだろうかとか、もう一度会いたいと思っているのだろうかとか、言葉の端々から杉元くんのその人に対する一番大きな感情を読み取ろうとするけれど、私が求めていたような単純明快な一言で表すことができないものなんだろう。それでもその人を今でも大切に思っていることだけは察することができて、杉元くんと大切な人の記憶に安易に土足で踏み込んでしまったことに対する後ろめたさと胸の痛みが残っただけだった。

 じわりと目頭が熱くなって視界が滲んだ。慌てて涙を拭う。あれ、私、杉元くんのことこんなに好きだったのかな。自分の感情の混濁に思わず足を止めると杉元くんもすぐに気がついて「どうしたの?やっぱり具合悪い?」と心底心配そうに振り返ってくれた。ほら、杉元くんはいつも優しい。優しすぎて不安になってしまうほどに。彼の笑顔や温かい言葉を受け取った直後は幸せな気持ちで溢れるけれど、これ以上優しくしないでほしいという身勝手な感情が湧いてくる。
 
 ーー深入りはするなよ。

 そうだ、いっそのこと、杉元くんの前から消えてしまえばー。どこからともなく聞こえた囁きに誘われるがまま、一瞬よぎった思いに背筋が凍る。魔が差すとはまさにこのことをいうのだろうか。告白して振られたわけでもなく、私が一方的に淡い期待と好意を寄せていただけで杉元くんは私の質問に真摯に答えてくれたに過ぎない。どうして今まで与えてくれた杉元くんの優しさを裏切るような真似ができるだろうか。

「ごめんなさい」

 何か言わないとますます杉元くんを心配させてしまうと思い口を衝いて出たのは謝罪の言葉だった。いつの間にか堪えきれなかった涙がぽろぽろと頬を滑り落ちていた。具合が悪いでは片付けられない状態の私を前にして杉元くんの表情が曇る。

 ーー杉元佐一に取り入れ。ただし、深入りはするなよ

 またあの囁きが聞こえた。どくんどくん。心臓がこの声に従えと警告している。私は杉元くんを裏切らなければならない。そうしなければどうなるか。考えるまでもなく震えが止まらない手と背筋に流れる汗が本能的に答えを教えてくれていた。

「これ以上、杉元くんと一緒にいられない」

 眉根を寄せて、口を硬く結んで、険しい表情のまま目を伏せて。それから私を見た杉元くんの瞳は揺れていたけど何かを訴えかけるような強い光があった。

「俺は、またさんとこんなふうに別れるなんて嫌だ」

 さん。夢の中で呼ばれた声と杉元くんの声が重なった瞬間、脳内に夢の景色が広がり私の名前を呼んだ人の顔が鮮明になっていく。どうして気づかなかったんだろう。あんなに優しく私の名前を呼んでくれる人は、杉元くん一人しかいないのに。

「さっき言ったよね。本心はどこにあったのかって。今も、そうなの?」

 杉元くんが忘れられない人に対して語っていた言葉が私に向けられる。突きつけられた残酷な現実に耐えるかのように顔を歪ませていた。彼に似合わないこの顔を見るのは二度目だ、と思った。正確には思い出した。遠い遠い昔の記憶。あの夢の続きの出来事。

「この世界でも俺のことを選んでくれないんだね」

 今にも泣き出しそうな顔で杉元くんが笑った。優しい杉元くんの好意に応えられない理由が、彼の手を取れない存在が、私にはあるのだろう。それは今もこの魂に刻まれていて私を支配している。一度ならず二度までも杉元くんにこんな表情をさせてしまったことに罪悪感が生まれる一方で、一度目を経験した私は一体何を思ったのだろうと考える。いつまでも止まらない涙の理由を探していた。



2023.12.30
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