久しぶりに彼が登校してくるタイミングは決まっていつも次の季節へ移り変わろうとしている時期だった。
紅葉の見頃が終わる頃、晩御飯の鍋が恋しくなくなってきた頃。そしてやっぱり校庭が淡い薄紅色より新緑が目立ち始めた頃、新学期が始まってようやく登校してきた天馬は欠席したテストの補習プリントと向き合っていた。


「とっくに桜も散っちゃったよ」
「桜なら撮影中散々見た」


仕方のないことだと分かってはいるけれど、よくも見事に撮影が重なるものだ。季節の醍醐味を味わうことをすっぽかしていることにどうしても皮肉めいた口調になってしまう。
本当に桜はもう充分なのか、それとも私の言葉に付き合う余裕がないのか、天馬は眉間に皺を寄せてプリントと睨めっこをしたままぶっきらぼうに答えた。別に天馬と一緒に時を重ねられなかったことを憎んでいるわけじゃない。もうすぐ自分に一番似合う季節がやってくることにこの男は分かっているのだろうかと、そう言ってやりたかっただけだった。


「そういや、今日雨降るって言ってたぞ」


また一枚、薄紅色の花弁が重力に逆らえずに舞うのを目にしたときだった。あと何日で完全に散ってしまうのだろうとぼんやり考えていた私に図らずも天馬が答えという名の水をさした。
別に今更桜を惜しんでいたわけじゃない。私が思いを馳せていたのは、桜が散った後の季節のことだ。天馬が全く相手をしてくれないので、一人健気に次の季節を心待ちにしていたというのにご丁寧にも現実的な情報を与えてくれたおかげで興が醒めてしまった。
振り返って睨みつけてやりたかったけど、どうせ人の気も知らないで桜にも私にも見向きもせずプリントにかじりついているんだろう。


「・・・・傘、持ってない」
「マジかよ。・・・仕方ない、さっさと帰るか」
「それ終わらせてから言ってよ」
「じゃあ少しくらい手伝ってくれてもいいだろ!」
「やだ」


天馬がようやく振り返った気配がしたけれど、気づいていない振りをしてずっと窓越しの世界を見つめていた。新緑と僅かに混じる薄紅色の景色を飲み込むかのように鉛色が多くなってきた。あまり進捗がよろしくないのか天馬が焦り始めたようだけど、私は早く降り始めてしまえばいいと雨を願いながらどんどん分厚くなる曇を眺めていた。

それから数十分後、天馬が「終わったー!!」と大きく伸びをするのとほぼ同時にぽたぽたと雨が降り始めた。ようやくプリントから解放されたことで窓の外に目を向ける余裕ができたらしい。待に合わなかったか、と呟いて手早く帰り支度を始めた天馬を黙って見ていた。


、行くぞ」


プリント一枚終わらすのにあれだけ時間がかかっていたくせに、帰り支度は妙に早い。そんなに慌てなくてもいいのに。――夕方から明日の明け方まで雨は続くでしょう。お天気お姉さんがそう言っていたのをはっきりと覚えている。
職員室へプリントを提出して、下駄箱に着いた頃にはしとしとと春らしい細い雨が桜の葉を濡らしていた。天馬が鞄から傘を取り出して開く。右手で持って、左側に寄って一人分のスペースを空けて私に視線で促してくる。自然な態度を装って傘の中に入ると天馬はゆっくりと歩き出した。


「っていうかお前ほんとに傘ないのかよ。珍しいな」
「いいじゃん、たまにはこういうことしたって」
「・・・別に嫌だとは言ってないだろ」


はぐらかしたつもりがこんなにいじらしい姿を見せられたらますます本当のことを言えなくなる。落ち着かなくて嘘を隠した鞄を持ち直した。きっちりファスナは閉じているけれど、中が見えないように持ち手をぎゅっと掴む。
思いつきで発したあの言葉は、まるで子どもみたいな単純で稚拙な反抗心だった。プリントに必死な天馬にただ付き合うだけなのが悔しくて、ちょっと違う展開に転べばいいくらいに思っていた。本当は、天馬と一緒に桜を見たかった。紅葉だって見たかった。雪がちらつく中肩を寄せ合って登校したかった。もっと近くで、もっと、一緒にいたかった。


「歩き辛いだろ」
「たまにはいいでしょ」
「・・・・・・」
「あ、ひどい。今度は言ってくれないんだ」
「・・・・・濡れるからちゃんと寄れよ」


左腕を天馬の傘を持つ右腕に絡めると、天馬は少し戸惑うような顔をして私を見下ろした。大袈裟気味に口を尖らすと、一瞬眉根を寄せて顔を反らす。態度のわりに怒気を全く感じさせない優しい声音が愛しい。
弱く傘を叩く雨音と少し肌寒い春雨の空気が心地よい。あのまま止まない雨を教室で待つのもよかったけど、天馬に従ってしまったのは次の季節を待ちわびながらもようやく二人で共有したこの端境期をあっさり見過ごすのが惜しかったのかもしれない。


「桜散っちゃうね」
「そうだな」
「もうすぐ夏だね」
「まだ気が早いだろ」


ますます青々と木々が茂り、湿った重い雨の季節が終われば、ようやく夏がやってくる。燦々と輝く太陽と、瑞々しい青い空にどこまでも伸びて行く大きな白い雲。自信家で、単純で、負けず嫌い。まるで天馬みたいな季節だと思う。
きっと天馬はこれからも上を目指して進むんだろう。天馬に一番似合う季節を誰より心待ちにしているけれど、夏の太陽に負けないほど輝く天馬を隣で見れる日が一体どれほどあるのかは分からない。
この一年がそうだったように。随分色んな季節を飛ばしてしまった。

でも、今は。
夏を心待ちにするのが気が早いと言うなら、ようやく二人で歩いたこの景色を心に留めておきたい。雨を弾く若い緑と、雨と一緒に降る桜。左腕に天馬の熱を感じながら、柔らかくなったグラウンドに敷かれた薄紅色の絨毯をゆっくりと進んだ。





2018.5.13
Thank you for a title:チカノちゃん
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